研究者が悪いのか?

ディオバン事件の本当の悪は研究者――ドクターかもしれない。
自分の中に、あえてそんな仮説をたててみる。
ドクターは大切なお客様。悪いのはMR。そう思い込んできた自分にとって、これはひとつのタブーを破る考えだった。
高まる鼓動を感じながら、ディオバン事件の最終報告書をめくっていく。
ドクターにも責任があるのではないか……と自分に言い聞かせ、そうして目を通した報告書は、何度も読み込んだはずなのに、まるで違ったものに見えた。
どうしてこれが見えていなかったのか、と頭を抱えてしまいたくなるほど、そこには製薬企業だけでなく、研究者に対しても責任を問う声が溢れていた。
■東京慈恵会医科大学(Jikei Heart Study)
学内の研究者に大規模臨床研究の統計解析経験者がおらず,学内では統計解析を行っていない。
学内の研究者が元社員から統計方法に関して指導を受けたことはない。
統計解析の結果は、元社員から私に送られてきた。
元社員が実際に解析の作業を行った場所はわからない。少なくとも東京慈恵会医科大学以外のどこかである。

厚生労働省「高血圧症治療薬の臨床研究事案を踏まえた対応及び再発防止策について(報告書)」別紙5「東京慈恵会医科大学における本事案研究責任者に対するヒアリング概要」より
検討委員会のヒアリング資料は、事務的で、簡潔で、だからこそかえってリアルだった。

学内の研究者に統計解析経験者がいない……?

くすりが以前にこの報告書を読んだ時は
「統計解析の結果は、元社員から私に送られてきた。
元社員が実際に解析の作業を行った場所はわからない。少なくとも東京慈恵会医科大学以外のどこかである。」
という箇所にばかり注目していた。
冒頭の一文を、無意識に見ないようにしていたのかもしれない。
■京都府立大学(Kyoto Heart Study)
・元社員との関係
私や医局員も含め、統計に詳しい者は学内にいなかった。
・統計解析の実施
統計解析の協力をお願い出来る者は学内におらず、プロトコール作成段階から元社員に教えてもらった。
当時、私も医局員も統計解析ソフトを持っておらず、統計の知識もなかったので、統計解析は行っていない。

厚生労働省「高血圧症治療薬の臨床研究事案を踏まえた対応及び再発防止策について(報告書)」別紙5「東京都府立医科大学における本事案研究責任者に対するヒアリング概要」より
統計に詳しい人が学内にいない……?

くすりの中の研究者のイメージは、自分とは比較にならないほど優秀で、データと統計を自由に操る科学者の姿だった。
しかし、この報告書からは、およそ異なるものが伝わってくる。
はじめから「製薬企業が悪い」と身内の恥を決めてかかっていた自分は、「元社員」が、研究者の目を盗んで、自分や会社の実績のためにひそかにデータを操作していたと反射的に受け取ってしまっていた。
しかし、事実は……もっと深い何かがあるのではないか?

「そもそも、ドクターが統計を知らないなんてこと、あるのかな……」
「あるさ」
営業所近くの立ち食い蕎麦屋で独り言のように呟いた疑問に、いつの間にか隣にいた簾田が即答した。
「わっ! み、簾田さん、先日はどうも……」
途端に我に返り、うろたえる。気まずい。先週言われたHP担当への転向希望についてはスルーしたままだ。
「直利先生の件なら、俺で良ければ相談乗るぞ。どうせ、そっちが片付かないとこっち来ようって気にならないんだろ」
簡単に見透かされて、くすりは微妙な笑顔で返す。情報収集も推理も鎌かけも名探偵並みの簾田の言うことだ。いったい何をどこまで知っているのやら。
とは言え、直利先生とはできる限り1人で戦いたい……と答えあぐねていると
「俺の経験から言うと、ドクターは意外に統計が苦手だからな。統計解析の知識やアドバイスの話題は、かなりの確率でヒットする」
何食わぬ顔でくすりの独り言からの会話につなげた。まったくよく出来た先輩だ。
「簾田さん、統計解析の勉強もされたんですか?」
「市販の本で、エクセルを使った『なんちゃって』程度の知識だよ。それでも、前は統計をネタに勉強会を企画したら結構人気で、一時はちょっとした武器になったもんだ」
くすりは少し考えて
「臨床のドクターが統計が得意じゃないというのはなんとなくわかります。でも、研究者が、統計が苦手だなんてことはあるんでしょうか?」
すると、簾田は珍しく箸を止めて考えると
「……わからん」
明らかに言葉を選んで答えた。
「そういや前に、東大の臨床研究支援センターの先生が講演でこんなことを言っていたな」
「Jikei Heart Study(JHS)、Kyoto Heart Study(KHS)の問題の根幹に一つあるのは、臨床研究は誰でもできると思っている、という誤解です。
患者さんを集めて、くじびきをして、こっちはディオバン飲んで、こっちはカルシウム拮抗薬飲んで…なんて臨床試験は簡単にできるだろうと思っちゃう。
自分の患者が10人いたらそれを5/5に分けてとか、30人医者を集めてきて、1人ずつ患者100人集めてもらうと3000人の試験ができちゃうわけだから…というふうに、臨床研究は誰でもできると誤解している人が多いわけです」
「臨床研究は誰でもできると誤解している……?」
「どう思う、御薬袋」
「いや、そもそもGCPがありますよね」
「それは治験の話だ」と簾田は予測していたように返した。「臨床試験は違う」
「えっ」
目を丸くしたくすりに、簾田は淡々と説明する。
「治験は新GCP、つまり厚生労働省が作った省令に基づいて行われている。これは法律であり、ルールだから、違反すると捕まって罰則を受ける」
「はい。では臨床試験は……」
「今のところ『臨床研究に関する倫理指針』に則って行うように指導されている。これは指針であり、あくまでマナーだ」
「マナー? 規制じゃないんですか?」
「そう。違反をしても、たしなめられたり、叱られるだけさ。治験と違ってな」と簾田は真顔で言った。「だからこそ、自由にできるってこともある。臨床研究をできるレベルの統計知識がどの程度のものなのかも曖昧だ。もし統計が苦手な研究者がいれば、そこを手伝える部分も出てくる……」
簾田はいい加減にのびきってしまった自分の天ぷらそばと、くすりのかけそばを見下ろして
「まずいだろ」
そばの話か臨床試験の話か曖昧な言葉に、まずいですね、とくすりは答えると、柔かいそばを固唾と一緒に飲みこんだ。
・治験と臨床試験
治験=治療試験の略。治験と治験以外の臨床試験というダブルスタンダードがあるのは日本だけであり、英語圏ではいずれも「clinical trial」とされ区別はなく、すべてGCPで管理される。
――その日の午後。フジミメディカルクリニックにて。
「タブチロンは、解離半減期が長く、長時間にわたり安定した効果が持続します。例えば、アドヒアランスが高くないご高齢の患者さん5例に処方いただいて12週間副作用の発現を観察していただけないでしょうか。この製品の特徴をぜひ先生に確認していただきたいんです」
資料を示し説明するくすりに、藤見先生はうんうん、と微笑んで頷く。
「いいとも。要するに、君と私でプチ臨床試験をやろうというわけだね」
さすがに察しがいい。くすりは微笑みに少し苦笑を混ぜた。
1例でもいいから処方してほしい、というときこそ、対象となる症例を絞って3例か5例のお願いをする――。臨床試験の話題がてら、簾田から教わったテクニックだった。
・foot in the door(小さなお願いから)
謙虚そうにもとれる「1例だけ処方してください」という発想は、実際はMRの自己都合以外のなにものでもなく、「1例」とする根拠もない。
「対象となる症例」を絞ることは、その製品の特性を確認してもらうことであり、最終的に患者さんの治療上のメリットになる。
「1例だけ」ではなく、なぜ「3例か5例」なのかというと、1例だけでは有効性と安全性の確認が難しいからだ。
「3例か5例というのが御薬袋さんらしくてよろしい」と藤見先生は言った。「10例や20例ではいささか謙虚さに欠けるからね。ただ、私は統計データとかは苦手だ。適宜、情報はまとめてくれたまえ」
なるほど、こういうことか、と簾田の言っていたことを思い出しながらくすりは頷く。
「で、こないだのやぶ医院さんへの倍返しは成功したのかね」
悪戯っぽく笑う藤見先生に苦笑を返すと
「それが、まだ続行中と申しますか……」
さすがに「ドクターが悪い」という方向に話が飛んだとはあけすけに言いづらく、言葉を濁した。すると、何をどう考えたのか藤見先生はこう言って笑った。
「そうか。ずいぶん可愛がられているようだね。頑張りたまえ」


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