構造が悪いのか?

「人体実験」
言葉を聞いただけで気持ちが沈む。少し調べれば惨憺たる気持ちになれる。人類の恥。絶対の悪と言っていいはずだ。なのに

「参加者が足りなくて困っています」

あろうことか、直利先生はそう言った。一体どういうつもりだろう。
冗談? 謎かけ? 何かのヒント?
それとも、本気?
まさか大学病院時代、外科のエリートから内科に移った理由は、そういった非倫理的な行為が院内で噂になってやむなく、とか――。
「姉ちゃん」
いやいや、そんなことあるわけない。妄想にも程がある。考えすぎだ、わたし。
――でも、仮に本気だとしたら、自分はどう応えるべきなのか。
「姉ちゃん!」
最初は腹も立ったし、本当に厄介だったけれど、ここまでディオバン事件のことをしっかりと学べたのはプラスだったと思う。なぜか自分を特別扱いして、機会を与えてくれたことには感謝の気持ちだってなくはない。そして、その難攻不落の鋼のドクターから初めて「お願い」されたのだ。「ダメです」なんて無下には言えない。自分がMRでなかったとしても――。
「姉ちゃんってば!!」
思い切り肘で小突かれて我に返ると、いつの間にか弟の完治が横に立っていた。くすりはキッチンに立って朝食代わりの芋きんつばを頬張っている最中だ。
「あ、ああ、ごめん完治。考え事してた。どうかしたの?」
「お母さんが呼んでる」
ひどいふくれっ面で言った。もしかするといつものように幼稚な茶々を入れていたのかもしれない。幸い、まったく聞こえていなかった。

「来週の木曜、お父さんの13回忌。休み取れそう?」
あっ、とくすりはカレンダーを見た。予想以上の多忙でまったく気がついていなかった。
「一応、先月のうちに休みは申請してあるけど……」
木曜か、とくすりは顔をしかめた。それは毎週直利と面会している日だ。今週の「最後の戦い」に勝利したら、これからも面会が続くかもしれない。さらに、満を持して簾田からのHP転向の話を受けたとしたら、一層忙しくなるはずだ。
「……休めないかも?」
「……休まないかも」
寛子が訊ね、くすりが答えた。
「そう」と寛子は寂しそうに言った。「やっぱりお父さんとおんなじね」
――木曜日のフジミメディカルクリニック。
「先日は勉強させてもらったよ」と先生は手を差し出して笑った。「勉強会、お疲れさま。御薬袋さんの力で大成功だったね。ありがとう」
くすりは両手で藤見先生の手を握り頭を下げつつ
「とんでもないです! こちらこそありがとうございます。上の者も、是非近いうちに先生にお礼をと申しておりまして――」
くすりが企画した、地域包括ケアをテーマの軸にした勉強会は月曜に無事に終わった。名物院長で年長者でもある藤見先生の影響力は大きく、他の近隣の医師に新薬を案内する流れも、それとない口添えもあって上々に終わった。それから発注もトントン拍子に入り、営業所長のおぼえもめでたい。万事順調というところだ。
「いやいや、礼なんかいいから。それより早く、例のバトルの行方を教えてくれたまえ」
楽しそうな藤見先生に苦笑を返す。やぶ医院に向かう前の戦況報告もすっかりルーチンワーク化した感がある。しかし
「もうすぐ、終わります」
「ほう。言い切ったね」
「ただ……」
「ただ?」
「その……人体実験に参加してほしいとか言われてしまって……」
ためらいつつ告白すると、藤見先生の表情が一転して神妙になった。
「人体実験……。なるほど。まあ、冗談だろうね。冗談だけど、それは確かに大詰めだ」
厳かな言葉には含みがあって、眼光は息を飲むほど鋭かった。自分には見えていないものを見ている。いかにもそんな雰囲気がしたが、訊ねる前に藤見先生は言った。
「で、その人体実験をさて置くとして、君はどういう結論を用意しているのかね」

かいつまんで、くすりは話した。
製薬企業が悪い、研究者が悪い、と来て「構造が悪い」が今回のテーマだ。すなわち、臨床研究をめぐるインフラが、日本では整っていないということ。
そしてその前にある「人間的な」テーマとして

・どうして研究者はこの臨床試験をしようと考えたのか
・どうしてデータを改ざんしたりしてしまったのか

という疑問がある。

・問われているのは当事者の倫理。心の問題である。
・研究者は、自分の実績になる大規模臨床試験を行いたいと思っている。
・臨床試験は製薬企業からの資金が無ければできない。
・企業は、自社の薬剤の商品価値を高める「良い結果」を出してほしいと思い、何億、何十億というお金がかかる臨床試験に出資している。
・研究者が、企業の「思い」に応えたくなるのは当然の心理。

「うむ。その通りだ」と藤見先生は真剣な顔で微笑んだ。「実にその通りだ。がんばってくれたまえ」


やぶ医院に着く直前、晴天が急変して雨が降り始めた。
曇天と稲光の下、もうもうとたちこめる水蒸気に包まれた古びた診療所は、いつにも増して堅牢な要塞のように見えた。
定刻5分前に足を踏み入れると、深々と会釈した直利先生が真正面で待ち構えていた。くすりもすぐに会釈して
「失礼いたします。タブチファルマの御薬袋です」
「やぶ医院の直利です。本日はよろしくお願いいたします」
ほど近い場所で雷が鳴った。

「そもそも、なぜデータ操作を防げなかったのか。これには大きく3つの理由があると考えます。

1.研究者が臨床研究の「作法」を知らなかったから。
2.臨床研究の統計解析の専門家をチームに入れていなかったから。
3.大学の倫理委員会等が機能していなかったから。

1.に関しまして。
「作法」とは端的に言って、研究者の義務である研究の信頼性の確保です。この知識が研究者に足りなかったことが大きな理由の一つです。
2.に関しまして。
世の中には統計解析の専門家がいます。特に臨床研究の統計解析には専門的な知識が必要となります。この専門家に依頼するという選択をしていれば、データ改ざんを防げたかもしれません。しかし、本件では専門家をチームに入れるべきという認識自体ありませんでした。
3.に関しまして。
そもそも不正の監視ができていなかったということです。当然不正が起こる要因となります」
・トレーサビリティの担保
「……とにかく臨床試験と名のつくものに絶対必要なもの、それは、記録をちゃんと保存するということです。
そしてトレーサビリティ、すなわち原資料に戻れるということが大切なんですよ。
たとえば、既存のカルテからデータを集めてきて、ディオバンを服用している人のコレステロールの平均値が服用してない人より低いという結果が得られたとする。その際に、各データはどこのカルテから引っ張ってきたとか、そういうのは全部、元のカルテに戻れるように、カルテ番号など個人識別情報でちゃんとヒモづけがされている、ということが絶対必要です。
将来、何か問題がみつかったときに、原資料に溯って確認できるということはどんなことがあっても必要で、これがJHSやKHSはできなかった。
3千人のデータの一部がどの患者のものかわからないということが起こってしまったわけで、それはどんな研究であっても許されない」

「医師もMRも幸せにする患者のための情報吟味―ディオバン事件以降の臨床研究リテラシー」より引用・改変
先生は微笑みを絶やさないまま、黙って頷いた。
くすりも無言で頷いて、話を続ける。ここからが本題だ。

「以上は個人の問題かつインフラの未整備の問題です。つまり先生も仰った『人間的な問題であり、同時に構造的な問題』がここにあります。
構造、つまりインフラは整備することができます。ルールを厳格化し、運営を徹底すればよいわけです。
しかし、だからこそ当事者たちの『人間的な問題』つまり『心』が問われることになります。
製薬企業の担当者、そしてデータに触れる研究者は、それぞれ臨床試験に対して何を思い、どう行動するのか。
まず研究者がいます。研究者は自分の実績になる大規模臨床試験を行いたいと思っています。
しかし、臨床試験には莫大な研究費が必要です。
その研究費を提供してくれるのが製薬企業です。
企業は投資に対する利益を求めます。つまり、研究費を提供した臨床試験において、自社の薬剤の商品価値を高める「良い結果」が出てほしいと考えます。これはごく自然なことです。
ところが、臨床試験は大原則として『AとBのどちらが良いのかわからないから明らかにする』という領域でなされるべきものです。『Aの方が良い』ことをアピールするためになされるべきではありません。
したがって製薬企業の資金提供には、そもそも臨床試験の原則と相いれない思いが隠されています。しかし、研究費が無ければ臨床試験は実施できない。
ここに至って、研究者が臨床試験を行うにあたって、研究費を提供してくれた製薬企業に有利な結果が出ることを、まったく期待せずにいられるのか。
非常に難しいことだと思います。
先生が『人体実験への参加要請』という形でわたしを試されたように、お世話になった方に無理を頼まれ、何とか応えられないものかと迷う。揺れる。それは人として自然な心の動きです。
その揺れが大きく不正の側に傾いたとき、止まらなかった。止められなかった。止める機能が無かった。その時不正が起きる。
それがディオバン事件の本質であり、だからこそ、研究費のあり方と研究実施体制が問題になるのだと考えます」

「――その通りです!」
直利先生は力強く肯定した。
「見事です、御薬袋くすりさん。その通りです!」
「ありがとうございます、先生!」
くすりは深々と会釈して、湧きおこる達成感に浸った。我慢をしなければ、手を突き上げて飛びあがり、ガッツポーズをしてしまいそうだった。
やった――!
これで心置きなくHP担当になれる。簾田という手本を間近で学びながら、タブチファルマのMRとして一層のキャリアアップを――。
「それから?」
――?
気のせいか、直利先生の声が聞こえた気がして、ほころんだままの顔を上げた。
同じく、顔をほころばせた直利先生が口を開いて自分を見ていた。
「はい?」
思わず聞きかえした。すると、少し雲行きの怪しい顔になった直利先生が再び
「それから?」
と訊く。くすりは口を開いたまま固まった。何故なら手元にはもう何もない。全てを出し尽くしていたからだ。
そうして、ついに切り裂くような稲光が窓の外に炸裂した次の瞬間
「それから、どうなんですかと聞いているんです!」
と雷が落ちた。


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