わたしが悪いのか?

小雨が降り続く木曜の朝、くすりは鏡台の前で自分の姿を確認していた。
化粧はナチュラル、髪はひっつめ、アクセサリーは地味で小さいシルバー、ネイルも当然ツヤ出しのみ。
この辺はいつもと変わらない。仕上げると同時に仕事モードで眠気も吹っ飛ぶ――ところだが。
ふぁ……と気の抜けた欠伸が漏れた。なんと言ってもスーツが違う。新調したグレーでも着なれたリクルートでもない。真っ黒なフォーマルスーツ。今日の法事のために出してきた喪服だ。
もっとも通常出勤なら気合十分だったかと言うと、今日ばかりは少々怪しい。なぜなら、毎週恒例になっていた例の戦いも惨敗に終わってしまったからだ。
あれから1週間。意気揚々とHP担当へ異動する青写真も破れ、なんとなく申し出る気にもなれず、次に簾田と顔を合わせたらどうしようと気まずい思いをしていた。しかし簾田は簾田で本社筋で忙しいのか、幸い出くわすこともなければ、特に連絡もなかった。
やぶ医院からの発注は通常通りで、それは安心した。しかしその一方で情けない気持ちにもなる。
結局自分は直利先生にとって、いてもいなくても関係ないMRだったんだな、と。
しかし、それでも自分に目をかけていてくれたのが事実だとしたら、それは一体なぜだったのか。
知りたかった。
でも、もう、そんな機会はないだろう。
「くすり、用意できたらちょっと来て」
仏間から母が呼んだ。父の法要も13回忌で一区切りということで、遺品を整理していたはずだ。
「これ、お父さんが使ってた道具」とダンボール箱を差し出した。「なんか使えそうなものあったら取っときなさいよ」
うんざりしつつ、口答えも面倒なので従うことにした。もそもそとダンボール箱の中を探るふりをする。
父を軽く見るわけではないが、使えるものなんかあるわけない。現代の若手女性MRが13年前の中年親父プロパーの何を流用しろと言うのだ。
時代が違う。
年齢が違う。
性別が違う。
制度が違う。
変わらないものなんて、何ひとつない。せいぜい白紙の大学ノートでもあれば幸いだろう。
――と思っていたら、底の方に大学ノートを一冊見つけた。ただし、ボロボロの。
表紙には日付が書かれている。これは13年前、確か父が入院したあたりじゃなかっただろうか。そして終わりの日付は――ない。
読んでやるか、と思った。父は絵に描くのもためらわれるような仕事人間だった。そんな男が皮肉にも激務で倒れ、担当していた大学病院に入院することになってからの日記だ。自分の来し方を振り返って、どんな感傷的な文章を綴っているのやら――。
と思っていたら。
鬼かこの人、とノートの1ページ目でくすりは絶句した。
感傷的な文章など、一文字たりともなかった。父は「プロパー」ではなく「患者」であることをいいことに、おおっぴらに院内を歩き回り「調査」に励んでいた。明らかに立入禁止の場所にも行っている様子で、そうして見て、覗いて、聞いて、盗み聞きして、得た情報をびっしりと記入していた。個人名はイニシャル+生年月日らしき4桁の数字で伏せられていたが、おそらくいざとなれば簡単に病院のお偉方を失脚させられるような情報も、冷徹に。
――自分が再び担当するどころか、二度とこの病院を出られないことも知らずに。
ひどい、と思った。しかしその一方で同業者としての畏怖と同情も湧きおこる。
食い入るように眺めているうちに、やがて「n0401」なる医師が頻繁に出てくることに気づいた。注目して順を追って見直してみると、どうやら父の担当医らしい。
「n0401」に関する記述には、他にはあまり見ない父の意志が添えられていることが多かった。どうやら「n0401」は若手のホープで、最初はそりが合わなかったらしいが、父は彼が近いうち頭角を現すと見込み、接近しておいて損はないとあれこれと画策していたようだった。
詳細は書かれていなかったが、ある時を境に二人の距離が縮まったのがわかった。最終的に父は「n0401」が父の手術予定日に、病院の指示で、さる有力な地方代議士の手術を優先させられそうになっていることや、まだ成功例が少ない術式に挑もうかどうか悩んでいることを知ったらしい。 そこで父が選んだ道は、首尾よく仲良くなった「n0401」が出世する近道として、地方代議士の手術を優先させ、後回しにした自分で新術式を試すように、「n0401」には内緒で手を回すことだった。
――その結果、最初手術をするはずだった日に、発作を起こして死んでしまうとも知らずに。
「n0401」に関する記述はそれ以降なく、命日の朝食に関するメモで終わっていた。
この「n0401」先生は、今どこで何をしているのだろう。
この父の執念の暗躍を、知っているのだろうか。
沈痛に、ふとノートの最後を見てみると、厚紙が一枚挟まっているのを見つけた。「祝・手術成功!」という父のメモ書きに、先の地方代議士の手術日が添えられている。
手に取りふと裏面を見ると、それは昔懐かしいポラロイドカメラの写真だった。院内着で笑う父とドクターのツーショット。若いドクターは長身痩躯、知的で端正な顔立ちで、笑い慣れていない人間特有の不細工な笑みを浮かべていた。
「……?」
くすりは首をひねった。このドクター、見覚えがある。こんな不細工ではないが、笑みの堅苦しさにどことなく面影が――。
と、次の瞬間。
「母さん!」とくすりは叫んでいた。「父さんの死んだ大学病院の名前って、何だった?」
呆れながらも、母は答えた。
直利先生の、大学病院だった。
あっ、あっ、あっ、と驚きに口をぱくぱくとさせているところに、今度は弟が血相を変えて仏間に飛び込んできた。
「姉ちゃん姉ちゃん、大変! ちょっとテレビ見て!」
そう言ってスマホを見せようとする。
「あ……ごめん完治。わたし今、何も考えられないかも」
「考えなくてもいいから、とにかく見ろって!」
頭が真っ白のまま無理やり見せられたスマホの画面だったが、出ていたテロップを見てたちまち凍りついた。

「タブチファルマ 新薬『タブチロン』臨床研究で不適切関与か」

「……ある意味、今日休みで助かったね、姉ちゃん」
完治が言った瞬間、くすりのスマホが着信音を鳴らした。営業所からだ。
躊躇わず、取った。用件は――言うまでもない。
『休みのところ悪いが、できれば今からでも出――』
「出ます」
皆まで言われる前に答えて、立ち上がる。
「ごめん、母さん。完治、あとよろしく」
父のノートを手に、喪服の上着を脱ぎながら仏間を出て、部屋に向かう。慌ててついてきた完治が
「ちょっと姉ちゃん、マジで行くの? 何でだよ?」
「――待ってるから」
「いいじゃん、父さんの法事の時まで医者に頭下げなくたって。今行ったって、怒られるだけだろ?」
「わたしたちを待ってるのは、ドクターじゃないの」
最高速でリクルートスーツに着替え、鞄を持って玄関に向かうと、いつの間にか芋きんつばをタッパに詰めた母が待ち構えていた。
そして何か言うべく、口を開く。ここはいつもの「お父さんとおんなじね」を甘んじて飲みこむしかない――そう思っていたら
「お父さんによろしくね」
くすりは一瞬目を丸くしてから「伝えとく」とタッパを受け取り家を出た。


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