プロローグ

13年前。ある夏の雨の日のこと。
御薬袋《おみない》くすりは、まだ今一つ馴染まない中学校の制服を着て立っていた。
隣には母がいた。全身真っ黒の服を着て、赤ん坊の弟を抱いていた。
くすりは父を抱いていた。
黒い額縁の中で微笑む、背広姿の父を。
母はさめざめと、弟はぐずぐずと泣いていた。くすりは泣いていなかった。泣かないと決めていたからだ。
その気持ちは、親戚の大人たちに抱えられた大きな長方形の木箱が、くすりたちの目の前を通り過ぎ、黒塗りのワンボックスの後部に入っていく瞬間まで、少しも揺るがなかった。
ところがその時、背後から男の人が一人、くすりと母の間に乱暴に割り込んで前に出た。そして目の前の木箱に転ぶようにすがりついて
「お、御薬袋さん、御薬袋さん! 御薬袋さん!」
とくすりの――もとい、父の名前を連呼しながら、水たまりの中にひざまづき、人目も憚らず泣き始めた。
そこにいる誰もが驚いた。しかし引き離したりはしなかった。その男がずぶ濡れながらも白衣を身にまとっていたかもしれない。
医者だ。
何故?
(どうして、このお医者さんは、お父さんのために泣いているの?)
人も、車も、道も、空も、全てが黒く染まった世界の中で、その医者の震える背中だけがあまりにも白く眩しくて、ひとしずくだけ涙がこぼれた。
御薬袋くすりが泣いたのは、今までその一度きりだ。

化粧はナチュラル、髪はひっつめ、アクセサリーは地味で小さいシルバー、ネイルも当然ツヤ出しのみ。
スーツは、新調したてのグレーと黒のリクルートを何度も鏡の前で交差して、結局久しぶりのリクルートに決めた。
そして現在、鏡の中には会社のドレスコードそのものの女が立っている。3年目にもなっていかがなものかとは思うものの、今日はあえてこのフレッシュさに甘えてみることにした。少々重い話題を抱えている上に、厄介そうな初訪問も控えているからだ。

・人は見た目が9割
アメリカの心理学者アルバート・メラビアンが唱えた「メラビアンの法則」によると、話し手が聞き手に与えるインパクトには3つの要素があり、それぞれの影響力を具体的な数値に置き換えると、次のようになるという。

言語情報:7% / 聴覚情報:38% / 視覚情報:55%

実際のMR活動で「見た目」が先生に与えるインパクトがこれほど大きいものかと疑問はあるものの、外見・表情・しぐさ・視線がいかに重要かを再認識する必要はある。
どこの製薬企業も、新規納入軒数は新人MRが多いと言われる。「初々しい」好印象に後押しされた結果であろう。

『新人MRマニュアル』より 引用・改変
部屋を出て、キッチンに入ったところで、朝食の食器を片づけに来た弟の完治がにやけ顔で話しかけてきた。
「姉ちゃん。またテレビで製薬企業のニュースやってたよ」
「それがどうかしたの」
たちまちうんざりして答える。
「今度は社員が捕まったらしいじゃん。お姉ちゃんは大丈夫?」
「何が」
「いや、捕まるようなことしてないかなって。実際、どうなるかわかんないでしょ。お姉ちゃんの会社も、裏で色々やってるんじゃないの? 偉い人から『いいからやれ』って言われたりとかさ」
最近、製薬企業の不祥事が報道される度にこの調子だ。冗談のつもりかもしれないが、煩わしいことこの上ない。
「あのねえ、完治あんた――」
「わかってるわかってる。ニュースを鵜呑みにして、深い考えもなしに、コメンテーターの言うことをさも自分の意見のように話さない、でしょ?」
わかっててこれだ。ため息をつくくすりの脳裏に、先日行った学生時代の仲間との飲み会での会話がよみがえる。
『お金、儲かってるんでしょ』
『やっぱり接待とかすごいんだろ』
一般人の製薬業界に対するイメージなんてあんなものだ。さらに相次いで明るみに出る論文捏造問題が悪化に追い打ちをかける。だが、自分に何ができるわけでもない。
沈んだ面持ちで、朝食代わりの芋きんつばと牛乳を手に取るくすりを見て、完治は笑いながら
「でもさあ」と声をひそめた。「お姉ちゃんも、ああいうのバレずにやれるもんならやりたい、とか思う?」
「思うわけないでしょ。バカなこと言ってないで、早く学校行きなさいよ。遅刻するよ」
「それはあんたもじゃないの、くすり」
母の寛子の声だった。時計を見ると8時を回ろうとしている。いけない。そろそろ出ないと、卸の城戸さんとの打ち合わせに遅刻してしまう。
完治は逃げるように「行ってきます」と飛び出していった。やれやれ、と芋きんつばを頬張りながら何気なく母の様子を伺うと、ダイニングテーブルで何やら書類を眺めている。
……書類?
背後から近づいて覗きこむと、先輩の簾田《みすた》から預かった引継ぎ書だった。慌ててくすりは取り上げて
「勝手に読まないでよ」
「だったら置きっぱなしにしないでよ」
口を尖らせる母。同じように口を尖らせながら、くすりは書類を鞄にしまった。
「でも最近はすごいのね、あんたたち」と母は悪びれもせず言った。「先生が履いてる靴下のブランドとローテーションなんて、探偵でも調べないと思うけど」
「ああ……簾田さんは特別だから」
「くすりの営業所のトップだっけ?」
「今は全国トップ」とくすりは言った。「普通じゃないよ、あの人は。情報収集のレベルだって、それこそ何か悪いことでもしてるんじゃないかって思っちゃうくらい」
「情報収集なんて、どうせ接待、接待で色々やってるだけじゃないの? お父さんもそりゃあひどかったわよ」
「なんで父さんが出てくるのよ。一緒にしないで」
「そのお父さんに憧れて今の仕事選んだ誰かさんが何言ってるの」
「別に憧れてなんかないって。それに、接待はもう禁止されてるの。父さんの頃とは違うの」
「前にも聞いたわよ。接待は悪いことなんでしょ? で、『悪いことしてるんじゃないか』ってあんたが言うから乗ってあげただけじゃない。それなのにお母さんが悪いみたいな言い方よしなさいよ」
思わず言葉に詰まった。すると母は追い打つように、何度目になるかわからないお決まりの愚痴をこぼしだす。
「大体ね、くすり。あんた、お父さんのようになりたいわけでもないんだったら、どうしてわざわざ製薬企業なんかに就職したのって話よ。こんなことなら無理して薬科大なんて行かせるんじゃなかったわ」
「……」
「それにお父さんのことがなくたって、完治も言ってたけど、昨日はどこかの誰かが逮捕されちゃったって言うじゃない。なのによくもまあ、好き好んでお父さんと同じ『プロパー』になんて――」
「プロパーじゃなくて『MR』!」

・「プロパー」と「MR」
20余年前、MRはプロパーと呼ばれていた。この時代、彼らに必要な資質は「気合と根性」といわれ、「KDD(勘と度胸と出たとこ勝負)」などという言葉もあった程。
これを全面否定することはできないものの、時代は変わり、今では最低限の学術知識・製品知識を持っていることは大前提で、さらにそれを伝える「コミュニケーション能力」が最も重視されている。

くすりは思わず声を荒らげた。こちらも何度目になるかわからないお決まりの訂正だ。しかし、背を向けてリビングを出ようとした矢先に
「くすり。来月のお父さんの13回忌、休み取れそう?」
聞き捨てならないことを言われ、仕方なく振り返ると、母が芋きんつばが入ったタッパを差し出していた。
「多分、無理」
「どうして」
「月末に新薬と適応拡大ダブルで来るの。来月は修羅場。土日もないかも」
「あ、そう」と母さんは案の定とばかりに言った。「やっぱりお父さんとおんなじね」
芋きんつばを奪うように受け取ると、何も言わずに家を出た。


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