誰が悪いのか?

大手新聞各紙がこぞって、俗に言う「ディオバン事件」の報道を始めたのは、2013年の夏頃だった。ジリジリとセミの声が聞こえる診察室で、ドクターと交わした会話を覚えている。
「君のところ、大丈夫だよね?」
「うちの会社は、大規模臨床研究をやれるほどのパワーはないですから……」
当時はまだお互いに余裕があった。ドクターの口調は冷やかすような感じで、くすりも苦笑まじりに冗談めかしていたものだ。
同じ業界の話でも、あくまでよその会社の話だから……と。
しかし、半年が経ち、1年が経ち、報道は終わるどころか加速した。

ディオバン事件:
高血圧症治療薬ディオバンの市販後大規模臨床研究について、研究データの人為的な操作により事実と異なる結論が導き出されたことが判明し、臨床研究の質に関する問題が複数の大学において明らかになった事件。
また、製薬企業元社員によるこれら臨床研究の統計解析業務への関与及び研究者の利益相反に関する透明性が確保されていないことなども明らかになり、2014年6月、元社員は薬事法の誇大広告違反に抵触するとして逮捕された。

「君のところは、大丈夫かね?」

昼の診察室に厳しい声が響いた。声の主は目の前にいるドクターだ。還暦過ぎとは思えない若々しい顔に、眉間の皺が深々と刻まれている。
「フジミメディカルクリニック」の藤見院長だ。患者のためなら3日寝なくても平気と豪語する人だが、そのくせ毎晩飲みに出る。なかなかの絡み酒で、以前はMRの「お付き合い」も大変だったと聞いている。
「同じ製薬業界にある者として、この度の事件はまことに申し訳なく思っております」
くすりの口からは何回も繰り返した謝罪と弁解の台詞がすらすらと出てくる。
「私どもタブチファルマでは、特に問題となるような事例は報告されておりませんので、何卒ご安心ください」
ドクターからの『君のところ、大丈夫?』は、言葉は相変わらず漠然としたまま、時が経つにつれて厳しさを増し、今や冗談にするどころではない。
『君たちが提供してくる情報は、本当に大丈夫なのか?』
答えようのない質問だった。自分たちは、会社から与えられた情報をドクターに正確に伝えることしかできない。会社に「大丈夫と答えろ」と指示されたなら、会社を信頼してそう伝えるのがMRだと思う。
「そうか、ならいいんだがね」と藤見先生は言った。「御薬袋さんのことは信頼してるから、よろしく頼むよ」
「君たちは、会社の情報を信じて情報提供すればいい!」と月曜朝のミーティングで所長は檄を飛ばしていた。
「うちは今、目立った臨床データもないんだし、逆に誠実さを売るチャンスだと思え!」

ディオバン事件で個人が逮捕されたニュースには、正直かなりのショックを受けた。ニュースでは犯罪者扱いだったが、MRとしてみれば、優秀な人だったのだろう。
「今のMRにとっては、エビデンスこそ最大の武器だからな。御薬袋も、早く論文マーケティングのコツを身につけろよ」
くすりが配属されて間もないころ、そうアドバイスして笑った簾田の顔が脳裏をよぎる。
製薬企業に限らず、サラリーマンは皆、会社の方針にしたがって行動している。
「個人」がその一線を超えてしまってはいけないのだ。

論文マーケティング:
医学論文として発表された自社製品に関連する臨床データを、情報資材として活用すること。
製品情報概要・添付文書・インタビューフォーム……基本3点セットだけでは、ドクターとのコミュニケーションが成立しない時代にあらわれた、MRの最高の武器である。
より客観的評価の高い雑誌に掲載された論文は、ドクターとのコミュニケーションツールとして大きな力を発揮する。
出典元の論文投稿誌のインパクトファクターは、そのまま、MRが提供する臨床データのエビデンスの客観的な評価指標として大きな意味を持つ。
NEJM、Circulation、Lancet、JAMA…「double figures」と呼ばれる、これら二桁のインパクトファクターを持つ大論文投稿誌に掲載された臨床データは、MR垂涎の的である。

「そうだ。隣町に新しく開業した『やぶ医院』、君はあそこは訪問しているのかね?」
藤見先生が話題を変えてくれた。
「あ、はい。わたしが担当です。実はこれから初めて訪問するんです」
「そうか。どうやら、変わった人が院長らしいね。どんな診療所だったか、今度教えてくれないか」
「承知いたしました。来月には、新薬とタブアの適応拡大がありまして、文書が出来上がり次第、お持ちします。それで、今月の処方ですが……」
「先月と同じではノルマに足りんかね」
「いえ」
「では同じで。以上」

訪問時間、5分。
MR業務、5秒。
大抵の場合、こんなものだ。論文マーケティングとは言ったものの、手元にある医薬品情報は、改めて説明する必要もないこなれたものばかり。
『もっといい臨床データ』はMRなら誰だって欲しがっているのだ。心から。


ページの先頭へ